「いつでもバッハ、バッハ、バッハを練習しなさい」―クラシック音楽映画の古典的名作『カーネギー・ホール』(1947)のなかで、アル トゥール・ルービンシュタインは話しています。ピアニストであれば誰でも子どものころから一生かけてバッハを練習します。だからこそ、バッハの鍵盤音楽だ けをピアノのリサイタルで演奏するのは、ある特別な覚悟といったものが必要とされます。
それが「ピアノ音楽の旧約聖書」とまでいわれる《平均律クラヴィーア曲集》ともなればなおさらです。バレンボイムやポリーニがこの曲集をリサイタ ルや録音で取り上げたのは、彼らがすっかり功成り名を遂げた巨匠になってからでした。現代屈指のバッハ演奏家アンジェラ・ヒューイットも、この曲集を携え て世界ツアーを行ったのは、バッハ弾きとしての評価が確立してからでした。
青井さんが《平均律クラヴィーア曲集》第1巻全曲のリサイタルを行うのは、音楽家として機会が熟したからだと筆者は確信しています。ピアニストが 毎年、自分の音楽的主張をこめたプログラムでリサイタルを行うことは、当たり前のように見えて、日本ではこれほど難しいこともありません。青井さんはそれ を淡々と、当然のこととして行っています。
今回のリサイタルは、三部に及んだ昨年の長大なリサイタルに続く、青井ピアニズムの集大成、そして新たな出発点と言えるでしょう。どうか心ゆくまでお楽しみください。
1722年の秋から翌年にかけて、当時37歳のバッハは相次いで3つの曲集を完成させます。《平均律クラヴィーア曲集》、《インヴェンションとシ ンフォニア》の名で知られる曲集《正しい指導》、そして《オルガン小曲集》です。《平均律クラヴィーア曲集》の自筆譜のタイトル・ページには、上下に意味
ありげな渦巻き模様が描かれ(この模様にバッハが考えていた調律法が暗示されていると考える研究者もいます)、21行にわたってタイトルと説明が記されて います。
「よく調律されたクラヴィーア、あるいは、長3度すなわちドレミも、短3度すなわちレミファも含むすべての全音と半音を用いた前奏曲とフーガ。音 楽の学習を志す若者に有益に活用されるために、また、この勉強にすでに熟達した人々が特別の慰めを得るために。現アンハルト=ケーテン侯楽長、宮廷楽団監 督ヨハン・セバスティアン・バッハ作。1722年。」
この曲集は、バッハが音楽に関する深い学識と豊かな創作力をあわせ持つ音楽家であることをアピールするためにまとめられたと見てよいでしょう。前 半生のバッハはつねに条件の良い職を求めて転職を続けましたが、1722年末には当時ドイツ有数の音楽都市だったライプツィヒの聖トマス学校のカントル職
に応募中でした。この職は都市の音楽監督のようなもので、教会音楽や式典に必要な音楽の作曲・演奏・指導からラテン語の授業まで行わなければなりませんで した。総合的かつ完全な音楽家であるうえに、最高レベルの学問を修めた証拠となった「大学」(今やすっかり没落しました)を出た者でなければ務まらない立 場でした。
北ドイツでは音楽家一族として定評のあったバッハ・ファミリーでしたが、ヨハン・セバスチャンも含めて誰も大学で学んだことはありません。それだ けにバッハは、自分独自のやり方で音楽的能力や学識をアピールしなければならず、今後のバッハ家の音楽家、つまりバッハの子どもたちには、「高学歴」を身
に付けさせる必要性を感じていました。著名な大学都市でもあったライプツィヒへの転職は、音楽家になることが自明だったバッハの家族の将来のためにも、理 にかなっていました。バッハがオーディションを経てカントルに就任、1750年に没するまでライプツィヒを拠点に活躍したことはよく知られています。
《平均律クラヴィーア曲集》というタイトルは、いくらか訳しすぎのところがあります。原語のwohltemperierteというドイツ語には、 「よく調律された」という意味しかありません。タイトルには、「長3度すなわち…」と「短3度すなわち…」という見慣れない表現がありますが、これは当時
必ずしも音楽用語として一般的ではなかった「長調」と「短調」の意味で、前任のカントルだった作曲家クーナウの表現を真似たという説があります。
ところで「すべての長調と短調による曲集」になるためには、何曲作曲すればよいのでしょう? 例えば異名同音の調は、2つに数えて2曲作ればよい のか、それともひとつに数えて1曲でよいのか? 理論的に「すべての長調と短調」を追求すると、さまざまな問題が出来します。この問題に規範となる解決を与えたのが、バッハであり《平均律クラヴィーア曲
集》でした。バッハは鍵盤楽器の白鍵7つと黒鍵5つ、計12の鍵盤を主音とする長調と短調ひとつずつ、つまり12×2=24の調を満たせば、すべての長短 調が網羅されていると見なしました(この発想に、バッハの時代にも北ドイツで用いられていた、鍵盤楽器のためのタブラチュアの影響を見る研究者もいま す)。
では質問です。《平均律クラヴィーア曲集》第1巻では用いられている調はいくつでしょうか? 24ではなく、25です。第8曲をご参照ください。後年《平均律クラヴィーア曲集》は、続編の第2巻が成立しますが、第2巻では長短調12種類、計24の調が用いられました。
18世紀前半の作曲上の課題のひとつに、さまざまな調による創作と、その演奏を可能にする調律を探究するという問題がありました。《平均律クラヴィーア曲集》以前に何人かの作曲家がその問題に挑んだ曲集を世に問い、バッハにも影響を与えました。
《平均律クラヴィーア曲集》の創作にあたり、バッハは「前奏曲とフーガ」をできる限り多様なスタイルで作曲して、音楽の学識や経験の豊かさを示し ました。そのためこの曲集には、1720年代当時すでに古かったスタイルの音楽から、最新の様式のものまでが網羅されました。フーガも2声から5声のもの
までが揃い、各曲の拍子も多彩です。旧作に改訂を重ねて完成させた曲もあれば、新たに書き下ろされた曲もあります。それは作曲能力のデモンストレーション であると同時に、世界(宇宙)の秩序と多様性とを音楽によって象徴させる行為でもあったでしょう。
調律については、バッハは誰にも真似のできないやり方で楽器の調律を行い、あらゆる調を自由自在に弾きこなした、というフォルケルの評伝の記述が よく知られています。バッハの調律法の正体は現在も議論されていますが、演奏の必要に応じて、経験的に編み出した調律を用いていたと推定できます。《平均 律クラヴィーア曲集》の演奏に支障のない調律が、「よく調律された」クラヴィーアとなるのでしょう。
「クラヴィーア」がどんな楽器を指すのか、というのも重要です。バッハが想定した楽器は、チェンバロ、クラヴィコード、オルガンなどでした。しか し演奏に適した鍵盤楽器がふさわしい奏者によって上手に演奏されるのであれば、天国のバッハが四の五の文句をつけないことは確かでしょう。バッハの時代も
今も、重要なのは楽器ではなく、演奏のクオリティにあります。そしてバッハは、楽器が進化発展することを知っていました。
《平均律クラヴィーア曲集》第1巻は、バッハの生前には出版されませんでした。バッハの弟子たちや曲集に関心を持った音楽家たちの筆写によって伝 承され、18世紀後半には北ドイツを中心とする鍵盤楽器学習の教程に組み込まれていました。10代前半のベートーヴェン(1770年生まれ)を「神童」と
して紹介する記事には、才能の証としてベートーヴェンがこの曲集を巧みに弾きこなすことが強調されています。1801年に初めて出版されると、まさにこの 曲集は「音楽を志す若者に有益に活用」されたのでした。その若者たちのなかから西洋音楽史を彩る大作曲家や大演奏家が育まれました。クラシック音楽が楽し
まれ存続する限り、この曲集は西洋音楽の基幹レパートリーとしての立場を保ちつづけるでしょう。
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